徒然

誰も見なくていい日記

将来


明けて、2019年
特に変わる事もない毎日。
一つ歳を重ねた。

テレビやネットは、訃報と金銭と解散の文字が羅列されている。
推してるグループ全体は悪い事なく、むしろ去年の事柄を踏まえて成長をしているのが目に見えてわかる。
今年もまた、推して良かったと思うのだろう。

そんな中、唐突に自分の周りが変化した。
初詣に行っただけで取り憑かれたような身体のだるさや肩の重さ
家族との不仲
職場での謎の不安感と焦燥感と倦怠感
趣味に対しての腰の重さ
フットワークが全てにおいて重くなった。

なぜだか未だ解明はしていない。肩も、腰も、重いままだ。

推しが嫌になったんじゃない、家族が嫌いになったんじゃない、ただ少し、「自分」がおかしな方向に走っていた。
身勝手で自分のことしか考えられていない。
その幼稚さは、どこかで俯瞰に見えていた。
そして周りの人達はすぐさま気づいて、陰口を叩くようになった。避けるようになった。態度を昔よりも変えるようになった。

自覚症状があるのに変わらない、昔からそうじゃないのか?とも思えてしまうほどどこか浸透して、自然としていた。
気持ち悪いとも思う。
おかしいとはほとんどわかる。
だけどなぜか、そのままが「自分」ではないのか?と疑問を投げかける自分がいた。
「自分」ではないのに。とち狂った感覚を通常とは思ってはいけないのに。

職場への倦怠感はあまりにひどく、対人間への不信感も増した。
どうもその自分の病気のように吹き出る冷や汗と人の目線への怖がり方はなかなか凄かった。全て自分のことだが。
うつ病か?とも思うけどそんなのは自己診断にしかならず信用性もゼロに近い、自分自身を何かのカテゴリ分けして安心したいだけの初歩的な思考回路に過ぎない。
もうこの精神的な病なのではないか?という質問は何度も何度も経験したはず。
確かに専門的な病院へ診察した方が身のためなことも考えるがどうせ金の無駄、適当に抗うつ薬を渡されあしらわれるだけの未来。
明日だってまだまだ仕事は残ってる。そんな病気のせいにする時間はなくて、なんとか誤魔化して生きていた。

趣味も、小説を書くことが幸せだったはずなのにそれもまったく書こうと思えない。
しっかり書いたのはいつが最後か、覚えていない。
しかし"それ"の理由は分かってる、同志が増えて、「わざわざ自分が書かなくても大丈夫なんだ」と心底思ってしまった。
自分がいなくても世界が回ってるように、自分がいなくても才ある字書きはまだまだいる。
むしろ才能のない自分の文が世間に露呈されず清々しいような気持ちでもある。同志なんて、出会わなければ良かったな。

推しを推すことも、戸惑うようになった。
たかだか1か月前の自分は楽しそうで苦しそうで、でも全てを跳ね除けていたエネルギーがあった。
1つ歳を重ねるとはこうなるものなのか。
わからないけど、今はもう少しでいい。
多くの現場へ行こうとは全然思えず、夜行バスやホテルの見極めも面倒くさがった。
大好きな趣味の行為の1つでもあったのに。

身内も、こんな自分に愛想を尽かした。
見下すようになって、威厳なども前よりもっとなくなった。
愛情を注いでいた妹には泣かれるほどに、今の自分に不満を持っていた。
「傷ついた」「本当はこう思っていた」、様々な意見が目の前を暗くする。
人の気持ちなど、言われないと本当にわからないものなんだな。
私の正しさは他人の中では間違いだったようで、少しも伝わってはいなかった。




ここまで長かったな
まだまだやりたいことはあったはずなのに、もう何も無いように感じるのはなんでなんだろう。
闘争心も向上心も、無気力さを助長させただけだった。



楽しい  ってなんですか?